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Oct 2022

あるレジ打ち女性の話。

その⼥性は何をしても続かない⼥性だった。

⽥舎から東京の⼤学に⼊学し、部活やサークルに⼊っても、
すぐに飽きて次々と所属を変えていくような⼈だ。

⼤学を卒業し、彼⼥はメーカー系の企業に就職した。
ところが3ヶ⽉もしないうちに上司と衝突し、
あっという間に辞めてしまった。

次は物流の会社。
しかし、⾃分が予想していた仕事とは違うという理由で、
やはり半年ほどで辞めてしまった。

その次は、医療事務。
それも「この仕事じゃない」と辞めてしまった。

こうしたことを繰り返しているうち、彼⼥の履歴書には
⼊社と退社の経歴がズラッと並ぶようになってしまう。
ついに彼⼥は正社員としてどこにも採⽤してもらえなくなった。

だからといって、⽣活のためには働かないわけにはいかない。
親は「帰っておいで」と⾔うが、負け⽝のようで帰りたくない。

結局、彼⼥は派遣会社に登録した。
ところが、派遣先の社員ともトラブルを起こし、
嫌なことがあるとすぐに辞めてしまう。

そして彼⼥に、また新しい紹介が届いた。
スーパーでレジを打つ仕事だった。

やはり彼⼥は 1 週間もするうちに飽きてしまった。
「私はこんな単純作業のためにいるのではない」と考え始めたのだ。

とはいえ、今までさんざん転職を繰り返し
我慢の続かない⾃分が、彼⼥⾃⾝も嫌になっていた。
頑張らなければということは、本⼈にもわかっていたのだ。
しかし、どう頑張ってもなぜか続かない。

この時、彼⼥はとりあえず辞表を書いてみたものの、
辞める決⼼をつけかねていた。

するとそこへ電話がかかってきた。
「帰っておいで」お⺟さんの優しい声だ。
彼⼥は⽥舎に戻る決⼼をし、部屋を⽚付け始めた。

荷詰めをしていると、机の奥から1冊のノートが出てきた。
毎⽇書き綴った⼤切な⽇記だった。

パラパラとめくっているうち
「ピアニストになりたい」と書かれたページを発⾒した。
そう。彼⼥の⾼校時代の夢だ。

「あの頃はピアニストになりたくて練習をがんばっていたなあ」
彼⼥は、なぜかピアノだけは⻑く続いていたのだ。
しかし、いつの間にかピアニストの夢は諦めていた。

夢を追いかけていた頃を思い出し、
今の⾃分が本当に情けなくなった。

「あんなに希望に燃えていたのに、今はなんて情けないんだろう。
それなのに、私はまた逃げようとしている…」


彼⼥は⽇記を閉じ、泣きながら電話した。
「お⺟さん、私もう少しここでがんばる…」
彼⼥は辞表を破り捨て、数⽇でもがんばると決め、
翌⽇もレジ打ちのためにスーパーへ向かった。

彼⼥は、ふと思い出した。
「ピアノの練習の時には、何度も間違えながら、繰り返し弾いて
どの鍵盤がどこにあるかを指が覚えていった。
そのうち鍵盤を⾒なくても楽譜を⾒るだけで弾けるようになったんだ」


そして「私流にレジ打ちを極めてみよう」と決⼼した。

当時は、今のようにセンサーに商品をかざせば
値段が⾃動で⼊⼒されるレジではなかった。
値段をひとつひとつ打ち込むので、タイピング練習が必要だった。

彼⼥はまずレジのボタン配置を、すべて頭に叩き込んだ。
覚えたらあとは打つ練習だ。
ピアノを弾くような気持ちで、レジを打った。
そして数⽇のうちに、ものすごいスピードで打てるようになった。

すると不思議なことに、これまでレジしか⾒ていなかった彼⼥が
⾒もしなかったところへ⽬が⾏くようになったのだ。

「ああ、あのお客さん昨⽇も来ていたな」
「この時間になったらお⼦さんと来るんだ」
今まで気づかなかったお客さんの様⼦がよく⾒える。
それは彼⼥のひそかな楽しみになった。

そうしてたくさんのお客さんを⾒ているうちに
「この⼈は特売品を中⼼に買う」
「この⼈はいつも店が閉まる間際に来る」
「この⼈は⾼いものしか買わない」いろいろなことがわかってきたのだ。

そんなある⽇、いつも期限切れ間近の値下げ品ばかり買うお婆さんが、
五千円もするお頭つきの⽴派な鯛をレジへ持ってきた。

彼⼥はビックリして思わず話しかけた。
「今⽇は何かいいことがあったんですか?」

お婆さんは、彼⼥ににっこりと顔を向けた。
「孫がね、⽔泳の賞を取ったから、今⽇はそのお祝いなのよ。
いいでしょうこの鯛」

「いいですね、おめでとうございます!」
彼⼥は嬉しくなり、⾃然に祝福の⾔葉が⾶び出した。

これがお客さんとのコミュニケーションが楽しくなったきっかけだった。

そのうち彼⼥はレジに来るお客さんの顔をすっかり覚えてしまい、
名前まで⼀致するようになった。

「〇〇さん今⽇はこのチョコレートですか、
でも今⽇はあちらにもっと安いチョコレートが出ていますよ」

「今⽇はマグロよりカツオのほうがいいですよ」
などと話すようになったのだ。

「いいこと聞いたわ。今から換えてくるわね」お客さんも応える。
彼⼥はだんだんこの仕事が楽しくなってきた。

ある⽇のこと。
「今⽇はすごく忙しいな」と思いながら、彼⼥はいつものように
お客さんとの会話を楽しみながらレジを打っていた。

すると店内放送が響いた。
「本⽇は⼤変混み合いまして申し訳ございません。
どうぞ空いているレジへお回りください」


わずかな間をおいてまた放送が⼊る。
「本⽇は混み合いまして⼤変申し訳ございません。
重ねて申し上げます。どうぞ空いているレジへお回りください」


そして3回目。
同じ放送が聞こえてきた時に、初めて彼⼥はおかしいと気づき、
周りを⾒渡して驚いた。

どうしたことか、他のレジがガラ空きなのに
お客さんは⾃分のレジにしか並んでいなかったのだ。

「どうぞ空いているあちらのレジへお回りください」
店⻑が駆け寄り、お客さんに声をかけたその時。

あるお客さんがこう⾔った。
「ここでいいのよ。私はここへただ買い物に来ているんじゃない。
あの⼈としゃべりに来ているんです。
だからこのレジじゃないと嫌なんです」


その瞬間、彼⼥はワッと泣き崩れた。

さらに別のお客さんも
「そうそう、私たちはこの⼈と話すのが楽しみで来てるんだ。
特売は他のスーパーでもやっているよ。
だけど私はこのお姉さんと話をするためにここへ来ているんだ。
だからこのレジに並びたいんだよ」


彼⼥は泣き崩れたまま、レジを打つことができなかった。
仕事というのはこんなに素晴らしいのだと、初めて気づいたのだ。

すでに彼⼥は、昔の彼⼥ではなくなっていた。


※その後、彼⼥はレジの主任になって、新⼈教育に携わったそうだ。


株式会社GA INC
代表取締役社長 CEO 永 原 清 一

ながはら